現代詩の普及活動
前回は指導要綱を中心としましたが、今回は実例集が中心です。子どもたちに丁寧に向き合いながら、子どもの興味の引き出し方、子どもをいかに把握するか、様々な工夫と往還から、生き生きとした詩が生まれました。
江口 節
子どもの詩・その魅力
京都教育大学附属京都小中学校 元副校長 戸田 和樹
Ⅰ子どもの詩・その魅力
1 子どもが詩を好きになるとき
詩
5年 男子
詩にはいろいろな詩がある
おもしろい詩
悲しい詩
つまんない詩
いろいろある
いろんな詩があるけれど
その詩を書いた人にはね
その詩が一番似合うんだ
その人にしかない
詩の書き方があるからだ
詩はおもしろい
書いてもおもしろい
読んでもおもしろい
世界中の人たちが
いつでも考えて書いたりする
けれど
紙がないときは
声に出して読んでみよう
きっと
おもしろい詩が思いつく
耳の悪い人
目の悪い人も
みんな考えられるんだ
たのしいたのしい詩を考えよう
いろんなことが思いつく
「詩」と言葉に出しても
たのしくなっちゃう詩
風の音でも
コンピュータの音でも
音がないときは
見た目で詩を見つければいい
目も耳もない時は
かんしょくで見つければいい
あつい
つめたい
いろんなことで
詩が考えられるはずだ
けれども
ものすごくいやなかんじの時
詩を考えて気分をなおそう
詩にはいろんな力がある
おもしろい詩
S男が書いたこの作品を読んで、私は、彼が「詩の世界」を自分なりにとらえているように思われました。「声に出して読むことの楽しみ」や「世界中の人が分け隔てなく楽しめること」、なによりも「目の不自由な人や耳の不自由な人にとっても楽しめるもの」として詩を位置づけていることに驚きを感じたのです。まさに「詩」は、彼の言うとおりの働きを持っているように思われるのです。
では、何が彼にこうした「詩」への接し方を学ばせたかということです。思い当たることがいくつかあります。
一つ目には、教室開きに北原白秋の「お祭り」の群読を取り扱ったことが上げられます。
この群読は、和太鼓のリズムに合わせ学級全体でお祭りの情景を作り上げていくという学習形態をとります。子どもたちは、声を合わせて一つの作品を仕上げていく心地よさを味わったようでした。また、参観日の折りに保護者の方と一緒に声を出したことも、その効果を倍増したようでした。S男は、この学習活動をたいへん喜んでいたのです。
二つ目に、五年ろ組音読詩集を作ることをなげかけたことが上げられます。詩人の詩から、音読に適した詩を見つけ、それに解説文をつけて印刷製本し、学級で読み合うという取り組みです。S男は、谷川俊太郎の作品から「このへん」という言葉遊び歌を選びました。(「ことばあそびうた また」福音館書店)
このへん
谷川俊太郎
このへんどのへん
ひゃくまんべん
たちしょんべんは
できまへん
このへんどのへん
ミュンヘン
ぺんぺんぐさも
はえまへん
このへんなにへん
へんなへん
てんでよめへん
わからへん
S男は、この詩の中の「京都の地名」や「京ことば」に親近感を感じたのでしょう。
三つ目に、学級通信「あめんぼ」のことが上げられるでしょう。「あめんぼ」には、学級から生まれた作文や詩が掲載され、必ず一時間取り扱いでそれぞれの作品を読み合うという営みがなされていたのです。
やはり、彼に詩を好きにさせたものは彼の周辺に「詩」があったということではないかと思うのです。
詩を好きになるということは、子どもたちの暮らしに密着して「詩」が語られ、書かれているということではないかと思われるのです。
2 詩が生まれるとき
どんな時に詩が生まれるか。それは、書く対象と深く関わっているようです。子どもの日記を読むと、楽しかったことやうれしかったこと、大好きなことが書かれているとき、文章は比較的詳しく書かれてあることがふつうです。つまり、書くことがないという子どもには、「大好きなもの」や「身近な楽しい出来事」を題材に与えると詩が生まれてくるようです。「家族のこと」「友達のこと」「大好きな遊びのこと」「動物のこと」など、教師がその子どもの生活と関わりながら、題材のヒントを与えていくということが大切なようです。
ずいぶん前に受け持った一年生のK児は、書くことが好きで、まるで書くことを楽しんでいる風に見え、今でも私の心に残っている子どもの一人です。彼は、日記を続ける中で、ものの見方捉え方を学んでいたのです。
アメリカ
1年 K児
アメリカでは
男どうしでけっこんしてもいいのか
ぼく
かのうくんとけっこんするわ
アメリカにいって
そしたら
いつでもいっぱいあそべるで
いいか おかあさん
おかあさんが
いいけど
かのうくんとそうだんしてからな
やて
この詩をはじめ、犬と犬ごっこをした話やザリガニと遊んだ話など、彼にとっての大好きなことが形式にこだわらずに次々と書かれていたことを思い出します。また、そうしていたことを思い出します。また、そうした彼の楽しさが学級全体に広がり、喜びや生活を共有するようになったことを覚えています。「お母さんのこと」を題材にしても、様々な詩が生まれてきます。その人にしか書き表せない、この世に一つだけの詩が生まれてきます。
指導するときには、「あなただけにしか書けないお母さんのことを、あなただけのことばで書いてみよう。」と促します。実は、ここでは表象の切り取りを促しているのです。ほっておくと、子どもたちは観念上のことばで、たとえば「優しい」とか「温かい」ということばでまとめてしまうのです。そうしたことばを砕くために、その優しさや温かさを象徴しているものを見つけさせたりするのです。
六年生の子どもたちの詩をのぞいてみましょう。
ドライヤーとお母さん
6年 H女
お母さん
毎朝ブンブン髪とかす
この時すでに耳は、ない
耳は、どこかに行っている
この時何を話しても
お母さんには
伝わらない
ドライヤーの音
お母さんのおしゃれ心
鏡にうつったお母さんの顔
いい香りの香水か
今、お母さんの耳は
散歩に行ってる最中です
H女は、表象の切り取りを朝のお母さんの姿に求め、「ドライヤー」と「耳」に象徴化させています。耳が散歩に行くということはあるはずがないのですが、彼女にとってはまさに不在の耳になっているのです。
今の自分
6年 T男
お母さんがいなかったら
今の自分に
姿はない
もしお母さんが魚だったら
ぼくも魚として目を覚ます
そして広い海を泳ぎまわる
もしお母さんが鳥だったら
ぼくも鳥として目を覚ます
そして自由に空を飛ぶ
もしお母さんがゴキブリだったら
ぼくもゴキブリとして目を覚ます
そして家のすみをはいまわる
ぼくは自分の意志で
人間に生まれてきた分けではない
ぼくのお母さんがいるから
自分は今ここにいる
人間に生まれてよかったな
お母さんありがとう
T男は、お母さんの姿と自分の姿を対比する中で、自分の存在について考えています。大好きなお母さんの詩を書く中で、子どもは成長とともに、その視点を深めていくようです。子どもの成長の、その時代にあった表現を大切にしていきたいと思うのです。
詩が生まれるとき、成長の、その時代にあった題材を、その子どもに合わせて提示してあげられたら、詩が難しいと思わせてしまうことはなくなるように思うのですが、どうなのでしょう。
3 ことばの成長と子どもの成長
6年生のM女には、教科担任として二年間国語の学習を教えることになりました。明るくて、物怖じしないはっきりとした意思を示す女の子で、ものの捉え方もユニークなところを持っていると感じていました。
6年生の五月に「詩を書こう」と投げかけると、彼女は下書きを用意して授業に臨みました。
さくらのさくころ
6年 M女
さくらのさくころ
はいはいしていた妹
よちよち歩きができるようになった
さくらのさくころ
母さんに手をひかれて
幼稚園へ行く妹があった
さくらの花びらも散り
さくらのさくころ
みちがえるくらいに大きくなった妹が
赤い大きなランドセルをせおって
学校へ行く
やっとねがえりができたと父が喜ぶ
物を持つようになったと母も喜ぶ
学芸会では顔をはらしてまでがんばって
歌をうたう妹
一人でもバスに乗れると大いばり
四輪車が二輪車になったとうれしそう
友達も大勢
妹はぐんぐん大きくなり
わたしに口ごたえするようになり
わたしをあまりたよらなくなった
さくらがさくと
年輪とともに妹は大きくなり
香りとともに心も温かくなる
葉ざくらになる五月ごろ
妹の年齢が一つ増える
私の感動は、一人の人間として彼女の成長に触れたような思いを持ったからです。ここに書かれている内容と妹さんを見つめる目は、すでに大人のそうした内容と目ではないかと思われるのでした。「わたしをあまりたよらなくなった」の一文の後の「わたしはそれをらさびしく思う」を彼女と相談して、清書から削り取ったことでした。
子どもの書く作品を追いかけていると「この人はこんな書き方をしたかしら」とか「この言葉はどこで身につけたのだろう」と思うことがよくあります。表現が育つということは、まさに人が育つことだと思われるのです。
4 京ことばを使って詩を書く
「詩は歌なり」ということばがあります。詩は、音読して初めてその美しさを味わえるものなのです。強く言うならば、音読に耐えられない作品は詩ではないと言っても過言ではないでしょう。
ところで、京都に住んで二十年、子どもたちの暮らしから京ことばが確実に姿を消していこうとしていることに私は気がついていました。「方言」は、音声言語として暮らしの中に位置付いていたのですが、最近のマスコミの影響か、共通語の徹底によるのか分かりませんが、京ことばの音声言語としての特質がいささか薄れていることを危惧してきたのでした。
「京ことばを使った詩」は、そうした私の思いから発想されたものです。音声に表さなければ味わえない独特のイントネーションを持った京ことばを使って、独話や対話の形式で詩に表し、それを読み合おうというものです。
3年生と4年生の子どもたちと一緒に学習をすることにしました。
まず、普段使っている「京ことば」と思われることばの取材から学習は始まりました。子どもの集めてきたものは、関西弁もあれば大阪の地域のことばもあります。また、まさに「京ことば」と思われるものもあって、黒板いっぱいになるほどでした。ここで大切にしたことは、京ことばの独特のイントネーションを作っていることばです。それは、語尾に集約されているようでした。
次に、「何」を書くかという点です。独話という形式ですから、思っていることや願い伝えたいことを主題にすることが適当なように思われました。
子どもたちは、勢いよく書き始めました。京ことばで書くというよりは、普段の話し言葉で書けるという楽しみを感じたようです。書き上げて持ってきた物を見ると、京ことばの発音とは違う共通語が書かれていることが多かったようでした。「声に出して読んでみ。」と言って、確かめさせると、「違っているわ」「どう書くのやろ」ととまどいの声が上がりました。ここで初めて、話し言葉と書き言葉との違いを感じたようでした。京ことばへの認識の芽生えのようでした。
ふしぎな京都弁
3年 N男
おきばりやす
何きばらはんねん
おこしやす
だれおこすんやろ
どないしょ いわれても
こっちもどないしょ
いけまへん
どこいけへんねんやろ
工事中やろか
おへん
何がへんなんやろ
ぼくがへんなんやろか
Ⅱ 名前を覚える歌を作ろう
京都は、南北の道と東西の道とで仕切られた街づくりがされています。その、それぞれの道を順番に覚えるために、わらべ歌として「道を覚える歌」が残されてきました。
丸竹夷
まるたけえびすにおしおいけ(丸竹夷二押御池)
あねさんろっかくたこにしき(姉三六角蛸錦)
しあやぶったかまつまんごじょう(四綾仏高松万五条)
せった雪駄ちゃらちゃらうおのたな(魚棚)
ろくじょうさんてつ(六条三哲)とおりすぎ
ひっちょう(七条)こえればはっくじょう(八九条)
じゅうじょうとうじ(十条東寺)でとどめさす
この京の道の歌のリズムに合わせて、何かの名前を覚える歌を作ってみました。
重ねて音読したり、歌ったりして楽しんでいます。京都独特の言葉の抑揚が、何気ない言葉の連続さえも京都らしく感じさせてくれます。二年生での実践です。
虫の歌
2年 女子
すずがりんりん せみみんみん
かぶとにくわがた けんかだよ
かまきりバッタを 食べました
あめんぼスイスイ 水の上
てんとう虫は おしゃれだね
ちょうちょはひらひら とんでって
ハチはブンブン へんな音
魚の歌
2年 男子
たいはめでたい たべたいよ
いかはいかが たこをたこう
さんまさばは サンバおどる
いくらいくらか おやはサケ
金魚キンキン きれいだね
とびうおとべば とてもとぶ
めだかがかえるに なる
えきの食べ物の歌
2年 男子
はかためんたい ゆうばりメロン
なごやみそかつ あおもりりんご
いせのあかふく わかやまみかん
よこはましゅうまい
大さかたこやき さっぽろラーメン
ぼくもうろうろ 食べたいな
えきの食べ物 せいはする
パンの歌
2年 女子
あんパン コッペパン フランスパン
しょくパン ブドウパン メロンパン
しおパン ジャムパン クリームパン
ドウナツぱくぱく たべたいな
チョコパン リーフパンもくれるかな
さいごにサンドイッチも ちょうだいね
みんなでなかよく 食べようね
Ⅲ 物語を詩にリメークする(もう一つのやまなし)
6年生で扱う宮沢賢治の「やまなし」は、取り扱うのに難解な教材である。下手をすると、厄介な読解を子どもたちに強要することになる。そこに教師がはまり込んでしまうと、途端に子どもたちは教材からソッポを向くことになる。
次に上げる指導計画は、一九九八年に実践した「やまなし」(もうひとつのやまなしを作る)のものである。
一次 全文を概観し、学習の見通しを持つ。
一時 宮沢賢治について知っていることを話す。
二時 学習目標を明らかにし、学習の進め方を明らかにする。
二次 五月と十二月の幻灯を作る。
三時 五月の幻灯のイメージを明らかにする。
四時 映像詩の作り方を知る。
五時 五月の映像詩を作る。
六時 五月の映像詩を作る。
七時 十二月の映像詩を作る。
八時 五月と十二月の幻灯を対比する。
三次 もう一つの「やまなし」を作る。
九時 二月と九月の幻灯をイメージする。
十時 二月と九月の幻灯にあわせた文章を書く。
十一時 二枚の幻灯の題名を考える。
十二時 それぞれの幻灯を鑑賞する。
四次 「やまなし」の表現のされ方を話し合う。
十三時 「やまなし」を音読する。
この学習は、「やまなし」をもとに、舞台を自分なりに変えた「もうひとつのやまなし」を作ることが目標であった。二枚の幻灯が登場するのは同じであるが、「京都の二月と九月」というように舞台設定を変えて、ストーリーをリメークしていくのである。
基礎的言語事項としては、オノマトペに着目し、そうした言語の採集を行い、基本としては、読むことをもとにした書くことへの転化を柱にした。
作品を作るためには、まず、物語の構成をつかまなくてはならない。また、二枚の幻灯という設定であるから、どんな場面を幻灯として扱うかを明確にさせなければならない。一次と二次は、そうした活動に当たるよう時間設定をするとともに、二つの幻灯を対比することで、何が伝わってくるかを考える時間とした。実は、この活動が、自分なりのストーリーの醸成期間になったのである。
私は、この計画をする上で、次のような教材研究を必要とした。
ア 対比されている言語
イ 反復されている言語
ウ 視覚に意識される言語
エ 聴覚に意識される言語
オ 停止と動きを表す言語
カ オノマトペ
キ 作品の構造
ク 子どもの求めるもの
実際の授業では、次のような教材観を書き残している。
「やまなし」は、光村六年(下)に掲載されている作品である。今回は、教材配列を入れ替えて、六月上旬から学習することにした。教科書は配布されていないので、作品をプリントし、挿し絵を一切入れない形で子どもたちに提示した。挿し絵を使わなかったのは、挿し絵によっての幻灯のイメージが固定化されることをおそれたからである。とりわけ、今回の学習の設定では、重要な要素と考えられたのである。
「やまなし」は、谷川の底を写した二枚の幻灯を作品化したものである。五月と十二月の幻灯それ自体は、停止画面であるが、作品を音読していくと、その停止画面が見事に動き出し、またその画面を作るカメラアングルも上下左右に動き始めるという特色を持っている。例えば、かにのはくあわつぶ一つ、「ぽつぽつぽつぽつ」をいかに音読するかによって、その動き方は変化することがわかってくる。「つぶつぶつぶつぶ」と流れにまかせて動く水面のあわも同じ事である。このような動くもの、あるいは変化していくもの、長い時間をかけて変容していくものが、巧みに二枚の幻灯の中に位置づけられているのである。それはまるで、形があるものは必ずいつかは形を失うということを物語っているようにも思われる。また、カメラアングルでは、かにの視線と同じように水底から上を見上げているように感じられる所もあれば、水面を境に真横から見ているように感じられる所もある。また、水面から水底を見下ろしているかのように思われる所もある
こうした変化や動きを心得ながら、二枚の幻灯としての画面を構成していくと、そこに読み手が何をどのように見たか(読んだか)の姿が表れてくることになる。例えば、画面の中心に「カワセミ」を位置づけたり、「かばの花びら」を位置づけたりすることで、その人が「何を」中心に幻灯を見ているかの姿が読みとれるように思われる。また、書かれていない水面より上の世界を描くものがいれば、その人が、水面下の情景からどのように上の世界を想像したかの姿が読みとれるように思われるのである。
そこで、今回の学習では、まず五月と十二月の幻灯の画面を、一人ひとりの子どもたちが自分の見方(読み方)で構成していくことをねらいとしたいと考えた。
では、その画面をどのように構成していくかということである。幻灯の画面を構成するのに必要なことは「何が」描かれているか、それがどのように動いているか、あるいはどんな様子かということである。そこで、「やまなし」の世界に巧みに取り込まれている動きや様子を表す擬態語や擬音・喩表現(色)に着目し、そうした言葉を使った画面を子どもたちに描かせてみようと考えた。
さて、二枚の幻灯が出来上がると、その二枚を対比し、何が共通しているか、何が違っているかを学習することになる。こうした対比の世界で作者が何を伝えようとしたかを探りたいと考えた。「明」と「暗」、「静」と「動」、「生」と「死」、「鋭いもの」と「丸いもの」、「奪われるもの」と「奪うもの」、「与えられるもの」と「与えるもの」。こうした違いの中で、変わらずゆったりと流れるもの。題名の「やまなし」につながる考えや思いを話し合いたいと考えた。
ところで、こうした内容を学習する必然性が、子どもたちにあるかということである。一方的に「こうしましょう」と下ろしていく方法もあるかと思われるが、子どもたちが、目的をはっきり持ち、一時間一時間「何をすればよいか」よく分かり、さらに「活動していて楽しい」学習を設定することが大事に思われた。そこで、「もう一つのやまなし」という単元学習を設定し、子どもたちの活動目標をはっきりさせて、その活動目標に到達するためにはどのような学習活動を行えばよいかを相談しながらの学習を行うことにした。
では、「もう一つのやまなし」はどのような学習活動かということである。
前述したように「やまなし」は二枚の幻灯をもとにした物語である。そこで、子どもたちの手でもう二枚の幻灯(もう一つのやまなし)を作ってみようと働きかけた。つまり、自分の幻灯を作ることを活動目標にしたわけである。そのために、どんな学習を行えばよいかを子どもたちと相談し、学習過程を作り上げていくことにした。ここで、「やまなし」を精読する必然性が出てきたわけである。自分たちの手で作り上げる幻灯は、京都に流れる谷川の底、二月(雪空)と九月(青空)の情景ということにし、絵ではなく、散文または詩的な文章として表現することにした。
そのための学習活動として、五月と十二月の幻灯それぞれに出てくるもの、その動きや様子、色、使われている言葉を取り上げ、それぞれの幻灯を映像詩として具現化するようにした。また、そこでは自分の描いた幻灯を表している本文を視写し表現のされ方を記録にとどめさせようと考えた。二つの幻灯ができあがった後に、二月と九月の文章構造を明らかにするために、五月と十二月との対比を行おうと考えた。
こうして、作品を詳しく読み、その文章構造と表現のされ方を学んだ後に、いよいよ自分の幻灯の作成にかかることになる。ここで、押さえておかねばならないことは、京都に流れる谷川の底の二枚の幻灯を作成すること、水面を流れていくものがあるということ、二月と九月の対比がなされていることなどが上げられる。ここでは、映像詩を書くということはない。すぐさま、二月と九月の散文または詩のような文章を書くことになる。それぞれの月のイメージがしっかり捉えられていなければならない。
二つの幻灯ができあがれば、それらを鑑賞することになる。音読してもらって、その幻灯の中で動くものや変容していくもの、色や、カメラワークなど話し合えると考えている。さらに、二つの幻灯の題名を考えさせようと思っている。「やまなし」では、十二月の幻灯に登場する「やまなし」を題名に上げている。それはなぜなのかを話し合いながら、自分の幻灯の題名付けの参考にさせようと考えている。
最後には、もう一度「やまなし」を音読し、この単元を終わろうと考えている。
〇「もうひとつのやまなし」子どもの作品
もうひとつのやまなし「露」
六年 N T
小さな谷川の底を写した
二枚の青い幻灯です
九月
岩によせては くだける流れ
あたって 割れて さけて 散って
そこらじゅうに ぶくぶく
あぶくをたたせる
それを見ていたカニの子は
下を向いて石を見た
白い軽石
透きとおった石英
そして上を見た
天井では 太陽の日光がまぶしかった
カニの子は ハサミをチョキンと
動かして
横向き歩きで 水中を歩く
ユラユラゆれている水草
天井は
昨日の冷たさ 感じない
あたたかさにほのぼのしていたカニは
あたたかさにほのぼのしていた魚に
出会った
「いやあーカニさん」
「よーう 魚さん」
「今日はあたたかいねえー」
「ほんと、ほのぼのするねえ」
カニと魚はゆっくりと話し合った
カニと魚は歩き出した
カニしか知らぬ 秘密の場所へー
「着いたあー」
カニはいった
ピチャン ポチャン ピチャポチャン…
「ん?何の音だ?」
「これかい?これは」
「これは」
「冷たいものがあたたかくなったんだよ」
「へ?」
魚は不思議そうだった
さーて カニの言ったものは何だったのか
二月
川の外は一面の銀世界
川の水は冷たかった
カニは下の方で うずくまっていた
魚も下の方で うずくまっていた
太陽が やっと
地平線に顔を出しはじめた
待ち構えていたかのように
「フウ」
とカニは ため息をついた
「ハア」
と魚はため息をついた
カニは魚の方へ
歩いていった
魚はカニの方へ
泳いでいった
「やあ」
「やあ」
「寒いね」
「うん」
その時
ピチャ ピチャ ポチャ
「ん?」
魚とカニは 上を見上げた
空から何かが 落ちてくる
「なんだろう」
「あっ」
カニはさけんだ
「九月のときのあの音だ」
「ああ」
魚も思い出した
九月のときのあたたかさが
よみがえったようだ
カニは ほのぼのとして
自分の家へ帰った
魚は ほのぼのとして
自分の家に帰った
私の幻灯は
これでおしまいであります
題名について
夜、空気が冷えて、空中の水分がつぶとなって、ものにつくことを露といいます。もちろん、川の草木にもつきます。
夜が明けたころ、ポチャンポチャンと露は落ち始めます。葉にいた時より、少し暖かくなって… (一九九八年度 附属京都小学校)













